〔エピソード 5〕
これは私の記憶による話ではない。母が幼い私に繰り返し聞かせてくれたことである。
母は私を連れて、隣町のある家を訪ねた。そこには、家を出た〈その人〉が女の人と暮らしていた。母が何をしようとしてその家に行ったかは、話さない。母がいつも話そうとしたのは、その家に入ったとき、私が
「どうして玄関に敷居がないの。」
と母に尋ねた、ということだけである。
戦後間もない東北の農村には、玄関に敷居のない家がまだあったのである。農村の中でもとりわけ貧しい場合である。ある同級生の家の玄関には敷居がなく、莚が戸の代わりにぶらさがっていた。私の記憶のなかにあるのは、この一軒だけだ。
母はなぜこの話を幼い私に聞かせたがったのだろう。家を捨てた〈その人〉が、我が家より貧しそうな見栄えの家で暮らすことをはからずも私が指摘したことで溜飲を下げていたのであろうか。あるいはまた、その家に住む女の人に対してであったろうか。
母と私がその家を尋ねてまもなく、〈その人〉はその家の女の人といっしょに東北の農村からも出て行ってしまった。母に連れられていったその日が、〈その人〉を見た最後ということになる。
〔その後〕
〈その人〉が私たちの周囲から消えてしまったあと、私たちは平穏に暮らした。少なくとも私の生活は、母、そして年の離れた三人の兄と二人の姉のなかで、ただ一人の子供として、甘え、甘やかされて過ごす日々だったのである。母や兄姉たちがどんな思いでいたのか、知る由もなかった幼い私にとって、貧しかったが、不幸なんかではなかった。
兄や姉たちには叱られた記憶がない。せいぜいからかわれたくらいで、その典型は「お前は川流れだ」というものである。私一人だけ年が離れているのは川を流れてきたのを拾ったからだ、という。兄や姉たちが口をそろえて言いつのり、私もそうなのだと納得したりもしたが、まったく平気だった。不幸でもなんでもない「川流れ」、それを嫌だとは思わなかったのである。可愛がられている、という実感のほうがはるかに強かったのだと思う。
〈その人〉はとうに私の中から消えていた。記憶にないあの日が最後の完全無欠の別れであった。そのはずだった。 |
〔その後のエピソード 1〕
19才、大学二年として仙台で暮らしていた私が、夏休みで帰省すると、少し前に、〈その人〉が田舎に突然現れたということであった。〈その人〉がいた頃に住んでいた家はすでに取り壊されて跡形もなかったはずである。兄姉たちはすべて結婚し、独立していて、母は次兄夫婦と暮らしていた。
次兄の家を探し当てて現れた〈その人〉と、母や兄たちがどんな話をしたのかはわからない。誰も話そうとしないのである。いま暮らしている住所を書き残して〈その人〉はふたたび消えてしまったというのである。母は、帰省した私にその住所をこっそりと教えてくれた。
その年の12月、暮れも押し詰まったころ、その住所(東京都昭島市)に出かけてみた。工事現場の飯場のような大きな家だった。40代、50代の男の人たちが大勢いた。
〈その人〉が私の顔を知らないのは当然であったが、自己紹介をしたはずの私への反応も、ぼんやりしたものだったような気がする。心当たりがなかったのではないか、と思う。初めて会った大柄な男の人が相手をしてくれ、小さな部屋でいっしょに酒を飲んだが、〈その人〉は一度も顔を出さなかった。
そのおじさんが私のマフラーを気に入ったらしいので、次の朝、別れしなにそのマフラーをプレゼントしてその家を出た。そのとき、〈その人〉と顔を合わせて挨拶をしたのかどうか、まったく覚えていない。
私のなかには〈その人〉がいないように、〈その人〉のなかにも私はいないのだ、ということだけを確認して仙台に帰ってきた。仙台に帰って、年が明けた頃、私はひどく精神が弱ってしまい、下宿のおばさんに強く説得され、数ヶ月大学を離れることになった。「精神の弱り」は、〈その人〉とはまったく関係のないことを理由としていた。
〈その人〉を訪ねていったことを家族に話すこともなく、ふたたび私の家族とその人とは没交渉となった。遠く離れて暮らす兄と姉を訪ね歩いて、その時期を過ごした。
〔その後のエピソード 2〕
25才であったか、26才になっていたか、このエピソードの最初のシーンの時期の記憶はじつに曖昧なのだ。大学院の修士2年か、大学の附置研究所の助手か、私の人生の区切りの明確などちらの時期に属するのか、まったく思い出せないのである。
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